さて、現代人は「魂を置き去りにする」ことによって環境や状況への適応を果たすのだが、ただし、いくら魂を置き去りにしても、魂とのつながりが失われることはない。
本当はこれが救いなのだが、しかし適応する努力の上では、これは、とてもやっかいなこととして感じられる。
たとえば、自分が嫌いな自分をなくそうとしても、それがなくなることは決してない。
そのため自分は、自分の嫌いな自分が、何かにつけて今の自分の「足を引っ張っ」てくるように感じる。
では、なぜこのようなことが起きるのか。
自分の嫌いな自分を完全に消し去ることは、どうしてできないのか。
その理由は、一言で言うと、その、自分の嫌いな自分こそが今の自分だからである。
今の自分を一言で言うと、「こういう自分ならいいようだ」と自分が感じた自分、という記憶の集積である。
では、「こういう自分ならいいようだ」と感じている自分がいる、ということになる。
それが、自分の嫌いな自分なのである。
正確に言うと、自分の嫌いな自分を通して今の自分を見ているような自分、というようなことになるが。
もうおわかりかもしれないが、それが「魂」ということである。
つまり、自分の嫌いな自分を通して今の自分を見ているような、そういう自分があり、その自分のことを「魂」と呼んでいる、ということである。
そのように、魂とは「決して対象化されない主体」のことである。
それはどういうことか。
例えばだが、目の前にマグカップがあるとする。
そうすると、自分は、そのマグカップを見ている主体であり、そのマグカップは、自分が見ている対象である、ということになる。
また、自分の名前、住所、性別、年齢、職業、人種といったものは、すべて自分の「肩書き」である。
さらに、自分の肉体や思考や感情もまた、自分に属しているようでありながら、しかしそれらもまた自分ではない。
自分というものを認識している主体としての自分があり、そういう自分は、決して認識対象とはなり得ない。
それが魂である自分ということである。
そのため、この、魂、あるいは「決して対象化されない主体」は、本来なら、そもそも言葉で表現できない。
なぜなら、あるものを言葉で認識することができるのは、それが対象だから、なのである。
例えば、目の前にあるマグカップのことを「マグカップ」として言葉で認識できるのは、そのマグカップは自分にとって対象だからである。
そして、決して対象となり得ない主体を、対象として認識することは、不可能である。
そのため、そうした主体を、主体である自分が言葉で認識することは、本来なら不可能である。
しかしそうなると、決して対象となり得ない主体に関して他の人と何らかのやり取りをすることもまた、不可能である、ということになる。
なぜなら、そのような主体を言葉で認識することは不可能だ、ということは、そのような主体を言葉で表現したり伝達したりすることもまた不可能だ、ということになるからである。
それはとても不便なことである。
–*–*–
さて、ここで一つ、トリックが用いられていることにお気づきだろうか。
先に、「決して対象となり得ない主体を言葉で認識することは不可能である」と書いた。
しかし、その、言葉で認識することが不可能なはずの「何か」のことは、すでに、「決して対象となり得ない主体」として、ここで現に言葉で認識されている。
「それ、言葉で認識することが不可能なのではなかったのか?」
「「言葉で認識することが不可能」といいながら、すでに言葉で認識し、また、表現しているのだが?」
「だから、現にやり取りが可能になっているのではないのか?」
例えばこういう疑問が出てくるようなことになっている。
これが「トリックが用いられている」ということである。
このトリックとはつまり、こういうことである。
「決して対象となり得ない主体を言葉で認識することは不可能である」と言っている時点で、その、決して対象となり得ない主体のことは、「決して対象となり得ない主体」として、すでに言葉で表現されている。
ということになってしまっているようだが、ということである。
一つ注意をしておくが、ここでは、「認識」と「表現」とを使い分けることによって、このトリックはトリックではない、ということもまた含み持たせているが、そうした細かいことは、厳密に考えるときには有用なのだが、日常生活の中にこうした厳密さを持ち込むと、いろいろと支障を来す。
日常生活の中では、言葉の使い方はかなりアバウトである。
さて、ではなぜ、こうしたトリックが起きているのだろうか。
もちろん、「言葉にすることが不可能なものごとについて言葉でやり取りをするため」という、便宜的あるいは実際的な意味でも、こうしたトリックが必要となる、というのはある。
実際問題、言葉にすることが不可能なものを本当に不可能なままにしておいたら、その、言葉にすることが不可能なものについて、そもそも何ら言葉でやり取りをすることができない。
だから、その、言葉にすることが不可能なもののことを、仮に言葉で表現することが、是非とも必要である、ということになる。
そのように、「主体」という言葉もまた、「言葉にすることが不可能なものを仮に言葉で表現した」ものである。
こうした言葉には、他に「神」とかがある。
神というのもまた、言葉にすることが不可能なため、例えば古代ユダヤでは神の名は「神聖4文字」として、みだりに口にしてはならない言葉とされていたようだが、それもまた、こうしたことがあってのことだったのかもしれない。
その言葉を口にした途端、それは「なんか違う」ことになってしまう。
そのように、「決して対象化されない何か」に関しても、それを言葉で表現した途端、なんか違うことになってしまう。
しかし、だからといってそれをあえて言葉にしないままでは、伝わるものも伝わらなくなる。
なのでそれを、「主体」などの言葉で表現する。
そもそも、決して対象化されない何かのことは、「決して対象化されない何か」として、すでに言葉で表現されている。
もし本当に言葉で表現しないようにしようとしたら、上の文は例えばこんな感じになる。
「そもそも、〇〇〇のことは、「決して対象化されない何か」として、すでに言葉で表現されている」
これでは、何のことやらわからなくなってしまう。
こうしたことが、便宜的あるいは実際的な意味での理由である。
さて、それとは別に、ここにはその本性からの意味がある。
それをここで述べてみる。
まず、「マグカップ」という言葉について考察してみよう。
「マグカップ」という言葉が指示しているものは、例えばこのようなものである。

これは分かっていただけるかと思う。
ただし、もしかしたらこういうものかもしれない。

これも分かっていただけるかと思う。
ただし、1つ目の画像と2つ目の画像とで、写っているものは違うのに、それらはなぜ、同じ「マグカップ」という言葉で表現できるのか、については、たぶんアリストテレス並みの非常にややこしい哲学的議論になる。
なぜならこれは、1つ目の画像と2つ目の画像とに写っているものの、その形や機能の共通性や類似性を抽出して、それを「マグカップ」という言葉で括っている、というようなことが、実際に無意識のレベルでは起きているからである。
もしそれが無意識のレベルで起きていなければ、人は1つ目の画像に写っているものと2つ目の画像に写っているものとを、同じ「マグカップ」という一言で表現できるものだとすることはできない、ということになる。
しかし人は現にそれが可能である。
つまり、上の2つの画像に写っているものはどちらも「マグカップ」である、と認識することができる。
したがって、先に書いた、「1つ目の画像と2つ目の画像とに写っているものの、その形や機能の共通性や類似性を抽出して、それを「マグカップ」という言葉で括っている」というのは、無意識では実際に起きていることになる。
さて、「マグカップ」に関してはこれぐらいにして話を戻すが、では、「決して対象化されない何か」に関しては、どうだろうか。
その「決して対象化されない何か」は、先のマグカップのように、端的に提示することができるだろうか。
マグカップの場合には、それは対象なので、例えば画像のように端的に提示することができた。
では、「決して対象化されない何か」を対象として端的に提示することは、果たしてできるのだろうか。
もし、その「決して対象化されない何か」を画像として提示することができたとしたら、それは例えばこういうことになりはしないだろうか。

では、この問題を別の角度から描写してみよう。
それは、ダグラス・ハーディングという人の実験である。
(厳密に言うと、ここでの私の方法は、「頭がない」というより「見ている自分」という気づき、ということになる)
これは実際に行ってみないとわかりにくいのだが、例えば、自分の人差し指でマグカップとかを指し示してみる。
そのとき、自分の指は対象を指し示している(画像は上の動画より)。

次に、その指を動かして、自分の足を指してみる。

さらにその指を、自分の胴体を指すところまで上げてみる。

ここまでなら、その指は対象を指し示している、ということはわかりやすい。
では、その指をさらに上げていき、自分の眼前に達したとき、その指はどのようになっているだろうか。
言い換えると、その指が指しているところには、何があるだろうか。

そのとき、その指はこうなっているわけである。
その指がマグカップや暖炉や足や胴体などを指し示していたときには、それは、いわばこういう状況となっていた。

ところが、その指が眼前に到達したとき、それはこういう状況となっている、ということになる。

この時、指は頭を指さしているはずなのだが、その頭は自分には見えない。
代わりに、指は、見ている自分の方向を指している。
つまり、それまでは対象を指し示していたはずの自分の指が、ここに至って、なぜか主体を指し示している、ということが起きている。
これはどういうことだろうか。
ここで一体何が起きているのだろうか。
自分の頭は、主体なのだろうか、対象なのだろうか。
これはもろ、自己言及の状況である。
ここで、「対象」という言葉と「客体」という言葉は、同じことを意味しているのかどうか、という問題があるが、それをスキップして、両者の言葉は同じことを意味しているとすると、これは、「自分の頭は、主体なのか客体なのか」ということになる。
ただし、ここでいう「頭」というのは、現実の、肉体的な頭のことだけではなく、「主体」ということのメタファーとしても同時に機能している、ということになる。
もし、ここでいう「頭」というのを肉体的な頭のこととして受け取れば、この実験は別に何の変哲もないことをしているだけである。
単に、「指は自分の頭を指している」というだけのことである。
さらに言うと、その場合、「自分の頭は、主体なのか客体なのか」というのは、そもそも問題ですらない、つまり擬似問題である、ということになる。
そのように、唯物論的には、「自分の頭は、主体なのか客体なのか」というのは、そもそも問題ですらない、あるいはせいぜい、言葉をもてあそんでいるだけだ、というように、いわばソーカル事件のようなことになるのかもしれない。
しかし、この「自分の頭」というのを、「主体」のメタファーとして受け取ると、これは、「主体は、主体なのか客体なのか」という、極めて形而上学的な問題を具体的に、リアルに提示している、ということになる。
(通常は、「頭」が実在であり、「主体」の方がメタファーとなるが、ここでは逆に、「頭」の方が「主体」のメタファーとなっている、ということに注意)
さて、「対象」ではなく「客体」という言葉を使うと、ここでずっとテーマにしていることは、以下のように表現される。
「決して客体となり得ない主体を言葉で認識することは不可能である」
そして、ダグラス・ハーディングの実験を私なりに解釈して示された問題は、以下のようなものである。
「主体は、主体なのか客体なのか」
そうすると、客体化され得る主体であれば、それを言葉で認識することは、可能なのかもしれない。
現に、例えばだが、自分の足は、客体として捉えることが可能であり、そうするとそれは「足」という言葉で認識することができる。
自分の頭もまた、客体として捉えることができる、、、、、、
のか?
ここで問題の本質に到達している。
肉体としての自分の頭ですらも、例えばマグカップとか暖炉とか自分の足とか胴体のように、客体として捉えることは、実は不可能なのである。
反論 : 「しかし現に、自分の頭のことを自分は、「自分の頭」として言葉で認識しているではないか? 言葉で認識できている以上、それは客体化されているのではないか? つまり、自分の頭は客体化され得るのではないか? それなら、自分の頭を客体として捉えることは不可能だ、ということにはならないのではないか?」
そういう反論は確かにあり得る。では、主体もまた、「主体」という言葉で認識できている以上、それは客体化され得る、ということになるのだろうか?
「主体とは、「決して客体化され得ないもの」だとすれば、それはおかしいことになる」
そのように、たとえ自分の頭を「自分の頭」として言葉で認識できているからといって、そのことは必ずしも、自分の頭は客体化できることを意味しているわけではない、のではないか?
「しかしそうなると、例えば、マグカップを「マグカップ」として言葉で認識できているからといって、そのことは必ずしも、マグカップは客体であることを意味しているわけではない、ということになるのではないか?」
まさにその可能性があるのだが、それを先に言うと話がややこしくなる。
「では尋ねるのだが、ここまでの話は、主体と客体とは識別可能である、みたいなことは自明のことのように話しているが、ここではあたかも、主体と客体とは互いに入れ替えることが可能である、というような感じになってきている。このことについてはどう思うのか?」
まさにそうしたことがあるからこそ、わざわざ「決して客体化され得ない」という枕詞を付けているのだが。
つまり、「客体化が可能な主体」ではなく「決して客体化され得ない主体」について、ここではずっと言及しているのだ。
「了解した」
そして反論はいっときの満足を得た。
———
さて、極めてややこしい話の連続になって申し訳ないが、こうしたことすべて、「魂」に再び手が届くためには是非とも必要であると、個人的は思っているので、あえて書いてみた次第である。
そして、たぶん幼少期のトラウマのため、私の意識にはこのように、たえず「横やり」が入るように、脳の配線が組み上がってしまっているのだが、それをここでは「有効活用」して、執筆しているときに入ってきた「横やり」を反論として、対話形式にして論じてみた。
さて、「肉体としての自分の頭を客体として捉えることは、不可能である」と書いたが、これは、幽体離脱や臨死体験のように、実は可能である。
幽体離脱や臨死体験の体験記を読むと、自分の肉体を上から見下ろしていたりすることは書かれている。
つまり、幽体離脱や臨死体験をしているときには、自分の頭もまた、客体として捉えることは可能である、ということになる。
ただし、普通に生きているときには、それは不可能であるため、ここでは「不可能である」と書いた。
さて、幽体離脱のことを書いたのでもう少し言及すると、ここでいう「主体」とは、肉体としての自分の頭ではなく、肉体から離脱した幽体の方にある、ということになる。
普段は、幽体と肉体は重なっているため、両者は同一視されている。
そのため、先のダグラス・ハーディングの実験で、自分の指が眼前に到達したときには、その指はたしかに、肉体としての自分の頭を指しているのだが、しかしそれと同時に、その指は認識主体をも指しているように見えている、ということである。
そして、「魂が追いつく」というのは、臨死体験や幽体離脱とは必ずしも関係がない。
結論から言うと、「魂を置き去りにしている」状態は、ある意味で、認識主体を置き去りにしている状態のことなのである。
なので、これはもしかしたら、幽体離脱において、肉体と幽体がそもそも分離することと、何か関係があるのかもしれない。
もちろん、必ずしも魂を置き去りにしているとは限らない未開人の場合でも、幽体離脱を体験することはあり得るだろうから、このことは必ずしも妥当するとは限らない。
さて、「勝手にネタバレ」をしてしまったが、ここまで、言葉上の問題についてくどいほど書き続けたのは、この、「「魂を置き去りにしている」状態は、ある意味で認識主体を置き去りにしている状態である」というところにたどり着こうとしていたためだった。
かなり長くなってしまっているが、では、一気に最後まで書こう。
「魂を置き去りにしている」とはいえ、魂である認識主体は相変わらず、事物を認識している。
その証拠に、マグカップを認識することは可能である。
だから、一見すると、ここには何の問題もないように見える。
しかしそうではない。
また結論から言うことになるが、魂が置き去りになっているとき、肉体が存在している位置と、魂が存在している位置との間には、魂が置き去りにされている分だけ「ギャップ」「距離」があることになるが、この「ギャップ」が、様々な恐怖や不安や罪悪感などをもたらす要因となっている。
そしてその状態が、現代人の意識のありようの「デフォルト設定」となっている。
さらに言うと、通常、この「ギャップ」は完全無自覚化されている。
つまり、通常、人は自分の肉体の位置から事物を認識している、と思っている。
しかし実際には、人は常に魂なる認識主体の位置から認識しているのである。
逆に言うと、本来なら、人は魂の位置以外から何かを認識することは、そもそもできない。
ただし例外的に、言語によってなら、擬似的に可能である。
なぜなら言語によってであれば、自分の知らないこともまた、それなりに想像することが可能だからである。
そして通常の認識は、言語を通して認識されている。
ただしここでいう「言語」とは、普通に用いられている言葉もそうだが、それを含めて広い意味での「言語性」とでもいうようなもののことである。
この「言語性」とは、言ってみれば「識別するためのフィルター」や「事物のイメージ形成の素因」のようなものである。
つまり、例えばだが、「人は実在しない世界が実在すると思い込んでいる」というのは、例えばこうした事情によっている。
つまり、無意識化された広義の言語性によって仮想的に構築された人物像や世界像の方を、人は現実の人物や世界などとしてしまっている、ということである。
それは決して、現実に実在する人物や世界ではない。
自分でも根拠がよく分からない恐怖などに人がしばしば囚われてしまうのは、この「ギャップ」は、今のところ充分に埋め合わせることができないから、なのかもしれない。
そしてこの「ギャップ」が急速に解消されていくプロセス、つまり「魂が追いつく」ことを、「前編」では、例えばエズラ記(ラテン語)とか、あるいは仏教関係の著作とか、奇跡講座などから引用した。
さて、あまり長くなってもあれなので、このことはいったんここで締めくくろう。