• さて、現代人は「魂を置き去りにする」ことによって環境や状況への適応を果たすのだが、ただし、いくら魂を置き去りにしても、魂とのつながりが失われることはない。

    本当はこれが救いなのだが、しかし適応する努力の上では、これは、とてもやっかいなこととして感じられる。

    たとえば、自分が嫌いな自分をなくそうとしても、それがなくなることは決してない。

    そのため自分は、自分の嫌いな自分が、何かにつけて今の自分の「足を引っ張っ」てくるように感じる。

    では、なぜこのようなことが起きるのか。

    自分の嫌いな自分を完全に消し去ることは、どうしてできないのか。

    その理由は、一言で言うと、その、自分の嫌いな自分こそが今の自分だからである。

    今の自分を一言で言うと、「こういう自分ならいいようだ」と自分が感じた自分、という記憶の集積である。

    では、「こういう自分ならいいようだ」と感じている自分がいる、ということになる。

    それが、自分の嫌いな自分なのである。

    正確に言うと、自分の嫌いな自分を通して今の自分を見ているような自分、というようなことになるが。

    もうおわかりかもしれないが、それが「魂」ということである。

    つまり、自分の嫌いな自分を通して今の自分を見ているような、そういう自分があり、その自分のことを「魂」と呼んでいる、ということである。

    そのように、魂とは「決して対象化されない主体」のことである。

    それはどういうことか。

    例えばだが、目の前にマグカップがあるとする。

    そうすると、自分は、そのマグカップを見ている主体であり、そのマグカップは、自分が見ている対象である、ということになる。

    また、自分の名前、住所、性別、年齢、職業、人種といったものは、すべて自分の「肩書き」である。

    さらに、自分の肉体や思考や感情もまた、自分に属しているようでありながら、しかしそれらもまた自分ではない。

    自分というものを認識している主体としての自分があり、そういう自分は、決して認識対象とはなり得ない。

    それが魂である自分ということである。

    そのため、この、魂、あるいは「決して対象化されない主体」は、本来なら、そもそも言葉で表現できない。

    なぜなら、あるものを言葉で認識することができるのは、それが対象だから、なのである。

    例えば、目の前にあるマグカップのことを「マグカップ」として言葉で認識できるのは、そのマグカップは自分にとって対象だからである。

    そして、決して対象となり得ない主体を、対象として認識することは、不可能である。

    そのため、そうした主体を、主体である自分が言葉で認識することは、本来なら不可能である。

    しかしそうなると、決して対象となり得ない主体に関して他の人と何らかのやり取りをすることもまた、不可能である、ということになる。

    なぜなら、そのような主体を言葉で認識することは不可能だ、ということは、そのような主体を言葉で表現したり伝達したりすることもまた不可能だ、ということになるからである。

    それはとても不便なことである。

    –*–*–

    さて、ここで一つ、トリックが用いられていることにお気づきだろうか。

    先に、「決して対象となり得ない主体を言葉で認識することは不可能である」と書いた。

    しかし、その、言葉で認識することが不可能なはずの「何か」のことは、すでに、「決して対象となり得ない主体」として、ここで現に言葉で認識されている。

    「それ、言葉で認識することが不可能なのではなかったのか?」

    「「言葉で認識することが不可能」といいながら、すでに言葉で認識し、また、表現しているのだが?」

    「だから、現にやり取りが可能になっているのではないのか?」

    例えばこういう疑問が出てくるようなことになっている。

    これが「トリックが用いられている」ということである。

    このトリックとはつまり、こういうことである。

    「決して対象となり得ない主体を言葉で認識することは不可能である」と言っている時点で、その、決して対象となり得ない主体のことは、「決して対象となり得ない主体」として、すでに言葉で表現されている。

    ということになってしまっているようだが、ということである。

    一つ注意をしておくが、ここでは、「認識」と「表現」とを使い分けることによって、このトリックはトリックではない、ということもまた含み持たせているが、そうした細かいことは、厳密に考えるときには有用なのだが、日常生活の中にこうした厳密さを持ち込むと、いろいろと支障を来す。

    日常生活の中では、言葉の使い方はかなりアバウトである。

    さて、ではなぜ、こうしたトリックが起きているのだろうか。

    もちろん、「言葉にすることが不可能なものごとについて言葉でやり取りをするため」という、便宜的あるいは実際的な意味でも、こうしたトリックが必要となる、というのはある。

    実際問題、言葉にすることが不可能なものを本当に不可能なままにしておいたら、その、言葉にすることが不可能なものについて、そもそも何ら言葉でやり取りをすることができない。

    だから、その、言葉にすることが不可能なもののことを、仮に言葉で表現することが、是非とも必要である、ということになる。

    そのように、「主体」という言葉もまた、「言葉にすることが不可能なものを仮に言葉で表現した」ものである。

    こうした言葉には、他に「神」とかがある。

    神というのもまた、言葉にすることが不可能なため、例えば古代ユダヤでは神の名は「神聖4文字」として、みだりに口にしてはならない言葉とされていたようだが、それもまた、こうしたことがあってのことだったのかもしれない。

    その言葉を口にした途端、それは「なんか違う」ことになってしまう。

    そのように、「決して対象化されない何か」に関しても、それを言葉で表現した途端、なんか違うことになってしまう。

    しかし、だからといってそれをあえて言葉にしないままでは、伝わるものも伝わらなくなる。

    なのでそれを、「主体」などの言葉で表現する。

    そもそも、決して対象化されない何かのことは、「決して対象化されない何か」として、すでに言葉で表現されている。

    もし本当に言葉で表現しないようにしようとしたら、上の文は例えばこんな感じになる。

    「そもそも、〇〇〇のことは、「決して対象化されない何か」として、すでに言葉で表現されている」

    これでは、何のことやらわからなくなってしまう。

    こうしたことが、便宜的あるいは実際的な意味での理由である。

    さて、それとは別に、ここにはその本性からの意味がある。

    それをここで述べてみる。

    まず、「マグカップ」という言葉について考察してみよう。

    「マグカップ」という言葉が指示しているものは、例えばこのようなものである。

    これは分かっていただけるかと思う。

    ただし、もしかしたらこういうものかもしれない。

    これも分かっていただけるかと思う。

    ただし、1つ目の画像と2つ目の画像とで、写っているものは違うのに、それらはなぜ、同じ「マグカップ」という言葉で表現できるのか、については、たぶんアリストテレス並みの非常にややこしい哲学的議論になる。

    なぜならこれは、1つ目の画像と2つ目の画像とに写っているものの、その形や機能の共通性や類似性を抽出して、それを「マグカップ」という言葉で括っている、というようなことが、実際に無意識のレベルでは起きているからである。

    もしそれが無意識のレベルで起きていなければ、人は1つ目の画像に写っているものと2つ目の画像に写っているものとを、同じ「マグカップ」という一言で表現できるものだとすることはできない、ということになる。

    しかし人は現にそれが可能である。

    つまり、上の2つの画像に写っているものはどちらも「マグカップ」である、と認識することができる。

    したがって、先に書いた、「1つ目の画像と2つ目の画像とに写っているものの、その形や機能の共通性や類似性を抽出して、それを「マグカップ」という言葉で括っている」というのは、無意識では実際に起きていることになる。

    さて、「マグカップ」に関してはこれぐらいにして話を戻すが、では、「決して対象化されない何か」に関しては、どうだろうか。

    その「決して対象化されない何か」は、先のマグカップのように、端的に提示することができるだろうか。

    マグカップの場合には、それは対象なので、例えば画像のように端的に提示することができた。

    では、「決して対象化されない何か」を対象として端的に提示することは、果たしてできるのだろうか。

    もし、その「決して対象化されない何か」を画像として提示することができたとしたら、それは例えばこういうことになりはしないだろうか。

    では、この問題を別の角度から描写してみよう。

    それは、ダグラス・ハーディングという人の実験である。

    (厳密に言うと、ここでの私の方法は、「頭がない」というより「見ている自分」という気づき、ということになる)

    これは実際に行ってみないとわかりにくいのだが、例えば、自分の人差し指でマグカップとかを指し示してみる。

    そのとき、自分の指は対象を指し示している(画像は上の動画より)。

    次に、その指を動かして、自分の足を指してみる。

    さらにその指を、自分の胴体を指すところまで上げてみる。

    ここまでなら、その指は対象を指し示している、ということはわかりやすい。

    では、その指をさらに上げていき、自分の眼前に達したとき、その指はどのようになっているだろうか。

    言い換えると、その指が指しているところには、何があるだろうか。

    そのとき、その指はこうなっているわけである。

    その指がマグカップや暖炉や足や胴体などを指し示していたときには、それは、いわばこういう状況となっていた。

    ところが、その指が眼前に到達したとき、それはこういう状況となっている、ということになる。

    この時、指は頭を指さしているはずなのだが、その頭は自分には見えない。

    代わりに、指は、見ている自分の方向を指している。

    つまり、それまでは対象を指し示していたはずの自分の指が、ここに至って、なぜか主体を指し示している、ということが起きている。

    これはどういうことだろうか。

    ここで一体何が起きているのだろうか。

    自分の頭は、主体なのだろうか、対象なのだろうか。

    これはもろ、自己言及の状況である。

    ここで、「対象」という言葉と「客体」という言葉は、同じことを意味しているのかどうか、という問題があるが、それをスキップして、両者の言葉は同じことを意味しているとすると、これは、「自分の頭は、主体なのか客体なのか」ということになる。

    ただし、ここでいう「頭」というのは、現実の、肉体的な頭のことだけではなく、「主体」ということのメタファーとしても同時に機能している、ということになる。

    もし、ここでいう「頭」というのを肉体的な頭のこととして受け取れば、この実験は別に何の変哲もないことをしているだけである。

    単に、「指は自分の頭を指している」というだけのことである。

    さらに言うと、その場合、「自分の頭は、主体なのか客体なのか」というのは、そもそも問題ですらない、つまり擬似問題である、ということになる。

    そのように、唯物論的には、「自分の頭は、主体なのか客体なのか」というのは、そもそも問題ですらない、あるいはせいぜい、言葉をもてあそんでいるだけだ、というように、いわばソーカル事件のようなことになるのかもしれない。

    ソーカル事件 – Wikipedia

    しかし、この「自分の頭」というのを、「主体」のメタファーとして受け取ると、これは、「主体は、主体なのか客体なのか」という、極めて形而上学的な問題を具体的に、リアルに提示している、ということになる。

    (通常は、「頭」が実在であり、「主体」の方がメタファーとなるが、ここでは逆に、「頭」の方が「主体」のメタファーとなっている、ということに注意)

    さて、「対象」ではなく「客体」という言葉を使うと、ここでずっとテーマにしていることは、以下のように表現される。

    「決して客体となり得ない主体を言葉で認識することは不可能である」

    そして、ダグラス・ハーディングの実験を私なりに解釈して示された問題は、以下のようなものである。

    「主体は、主体なのか客体なのか」

    そうすると、客体化され得る主体であれば、それを言葉で認識することは、可能なのかもしれない。

    現に、例えばだが、自分の足は、客体として捉えることが可能であり、そうするとそれは「足」という言葉で認識することができる。

    自分の頭もまた、客体として捉えることができる、、、、、、

    のか?

    ここで問題の本質に到達している。

    肉体としての自分の頭ですらも、例えばマグカップとか暖炉とか自分の足とか胴体のように、客体として捉えることは、実は不可能なのである。

    反論 : 「しかし現に、自分の頭のことを自分は、「自分の頭」として言葉で認識しているではないか? 言葉で認識できている以上、それは客体化されているのではないか? つまり、自分の頭は客体化され得るのではないか? それなら、自分の頭を客体として捉えることは不可能だ、ということにはならないのではないか?」

    そういう反論は確かにあり得る。では、主体もまた、「主体」という言葉で認識できている以上、それは客体化され得る、ということになるのだろうか?

    「主体とは、「決して客体化され得ないもの」だとすれば、それはおかしいことになる」

    そのように、たとえ自分の頭を「自分の頭」として言葉で認識できているからといって、そのことは必ずしも、自分の頭は客体化できることを意味しているわけではない、のではないか?

    「しかしそうなると、例えば、マグカップを「マグカップ」として言葉で認識できているからといって、そのことは必ずしも、マグカップは客体であることを意味しているわけではない、ということになるのではないか?」

    まさにその可能性があるのだが、それを先に言うと話がややこしくなる。

    「では尋ねるのだが、ここまでの話は、主体と客体とは識別可能である、みたいなことは自明のことのように話しているが、ここではあたかも、主体と客体とは互いに入れ替えることが可能である、というような感じになってきている。このことについてはどう思うのか?」

    まさにそうしたことがあるからこそ、わざわざ「決して客体化され得ない」という枕詞を付けているのだが。

    つまり、「客体化が可能な主体」ではなく「決して客体化され得ない主体」について、ここではずっと言及しているのだ。

    「了解した」

    そして反論はいっときの満足を得た。

    ———

    さて、極めてややこしい話の連続になって申し訳ないが、こうしたことすべて、「魂」に再び手が届くためには是非とも必要であると、個人的は思っているので、あえて書いてみた次第である。

    そして、たぶん幼少期のトラウマのため、私の意識にはこのように、たえず「横やり」が入るように、脳の配線が組み上がってしまっているのだが、それをここでは「有効活用」して、執筆しているときに入ってきた「横やり」を反論として、対話形式にして論じてみた。

    さて、「肉体としての自分の頭を客体として捉えることは、不可能である」と書いたが、これは、幽体離脱や臨死体験のように、実は可能である。

    幽体離脱や臨死体験の体験記を読むと、自分の肉体を上から見下ろしていたりすることは書かれている。

    つまり、幽体離脱や臨死体験をしているときには、自分の頭もまた、客体として捉えることは可能である、ということになる。

    ただし、普通に生きているときには、それは不可能であるため、ここでは「不可能である」と書いた。

    さて、幽体離脱のことを書いたのでもう少し言及すると、ここでいう「主体」とは、肉体としての自分の頭ではなく、肉体から離脱した幽体の方にある、ということになる。

    普段は、幽体と肉体は重なっているため、両者は同一視されている。

    そのため、先のダグラス・ハーディングの実験で、自分の指が眼前に到達したときには、その指はたしかに、肉体としての自分の頭を指しているのだが、しかしそれと同時に、その指は認識主体をも指しているように見えている、ということである。

    そして、「魂が追いつく」というのは、臨死体験や幽体離脱とは必ずしも関係がない。

    結論から言うと、「魂を置き去りにしている」状態は、ある意味で、認識主体を置き去りにしている状態のことなのである。

    なので、これはもしかしたら、幽体離脱において、肉体と幽体がそもそも分離することと、何か関係があるのかもしれない。

    もちろん、必ずしも魂を置き去りにしているとは限らない未開人の場合でも、幽体離脱を体験することはあり得るだろうから、このことは必ずしも妥当するとは限らない。

    さて、「勝手にネタバレ」をしてしまったが、ここまで、言葉上の問題についてくどいほど書き続けたのは、この、「「魂を置き去りにしている」状態は、ある意味で認識主体を置き去りにしている状態である」というところにたどり着こうとしていたためだった。

    かなり長くなってしまっているが、では、一気に最後まで書こう。

    「魂を置き去りにしている」とはいえ、魂である認識主体は相変わらず、事物を認識している。

    その証拠に、マグカップを認識することは可能である。

    だから、一見すると、ここには何の問題もないように見える。

    しかしそうではない。

    また結論から言うことになるが、魂が置き去りになっているとき、肉体が存在している位置と、魂が存在している位置との間には、魂が置き去りにされている分だけ「ギャップ」「距離」があることになるが、この「ギャップ」が、様々な恐怖や不安や罪悪感などをもたらす要因となっている。

    そしてその状態が、現代人の意識のありようの「デフォルト設定」となっている。

    さらに言うと、通常、この「ギャップ」は完全無自覚化されている。

    つまり、通常、人は自分の肉体の位置から事物を認識している、と思っている。

    しかし実際には、人は常に魂なる認識主体の位置から認識しているのである。

    逆に言うと、本来なら、人は魂の位置以外から何かを認識することは、そもそもできない。

    ただし例外的に、言語によってなら、擬似的に可能である。

    なぜなら言語によってであれば、自分の知らないこともまた、それなりに想像することが可能だからである。

    そして通常の認識は、言語を通して認識されている。

    ただしここでいう「言語」とは、普通に用いられている言葉もそうだが、それを含めて広い意味での「言語性」とでもいうようなもののことである。

    この「言語性」とは、言ってみれば「識別するためのフィルター」や「事物のイメージ形成の素因」のようなものである。

    つまり、例えばだが、「人は実在しない世界が実在すると思い込んでいる」というのは、例えばこうした事情によっている。

    つまり、無意識化された広義の言語性によって仮想的に構築された人物像や世界像の方を、人は現実の人物や世界などとしてしまっている、ということである。

    それは決して、現実に実在する人物や世界ではない。

    自分でも根拠がよく分からない恐怖などに人がしばしば囚われてしまうのは、この「ギャップ」は、今のところ充分に埋め合わせることができないから、なのかもしれない。

    そしてこの「ギャップ」が急速に解消されていくプロセス、つまり「魂が追いつく」ことを、「前編」では、例えばエズラ記(ラテン語)とか、あるいは仏教関係の著作とか、奇跡講座などから引用した。

    さて、あまり長くなってもあれなので、このことはいったんここで締めくくろう。

  • さて、「現代人は魂を置き去りにしている」というだけでは、なんのことやらさっぱりわからない。

    そこで、一つ、具体例を示そうと思う。

    先の、「考えさせられる話」からの引用の中に登場する学者たち。

    彼らは、インディオたちが先へ進むことを拒否したとき、どうしただろうか。

    学者たちは、賃金を上げることでインディオたちを動かそうとしたが、うまくいかなかった。

    次に罵り始めた。

    挙げ句の果ては、銃で脅したりした。

    そして、これらの行動を取るような心的状態が、魂を置き去りにした人の取る行動の一例である。

    このように、魂を置き去りにしているとき、人は、現状が自分の思い通りにならないと、直接的・間接的に状況や相手を操作し、コントロールしてでも、現状を自分の思い通りにしようとする。

    さて、これらの中には、「インディオたちと話をする」ということが含まれていない、ということにお気づきだろうか。

    つまり、学者たちは、いろいろな手段を使って、インディオたちを自分たちの思い通りにしようとしているが、そこには、「インディオたちと話をする」ということは、全く含まれていない、ということである。

    インディオたちと話をすることは望むべくもなかったとしても、しかし彼らは学者である。

    彼ら学者たちは、遺跡発掘のために中米の内陸まで探検をしに来たにもかかわらず、「インディオたちが突然、先へ進むことを拒否した」という「遺跡」を「発掘」する気にはならなかったのだろうか。

    こうしたことはもう、知りようがないことなので、これ以上このことを深堀りする気はないが。

    もちろん、「ずいぶん日にちがたってから」、インディオたちと信頼関係を結ぶことができた白人たちは、あのとき、インディオたちがなぜ、先へ進むことを拒否したのかについて知ることができたが、それによると、「魂が追いつくまで待たなければならなかった」から、ということだったのであり、それを知ることができたため、一連のエピソードはエンデの知るところとなった、のではあるが。

    さて、ここで学者たちが、インディオたちがどうしても動こうとしないことで諦めたことは、とてもよかったのかもしれない。

    なぜなら、それでも彼らが諦めなかったとしたら、手段は次第に強硬なものとなり、白人たちのあまりの横暴ぶりにたまりかねて、最終的にはインディオたちの「徹底抗戦」が始まったかもしれない。

    そうすると、白人の学者たちの間で、「未開人は好戦的で野蛮だ」という「定型句」が強化されたかもしれない。

    彼らはそこまでのことはしなかった、ということからは、文明人たちは、以前よりは「文明化」されてきたのかもしれない、ということは、言えるかと思う。

    いくら自分たちが、「内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚」を「とうの昔に抹殺」したからといって、そうした感覚を温存している人たちの感覚までも抹殺しようとするのでは、それは到底、文明人とは言えないのではないか。

    それは「野蛮人」としか言いようがなくなってしまうのではないか。

    では、外的に文明化されればされるほど、人の心は野蛮になっていく、ということなのか。

    おそらくこうしたところから、「考えさせられる話」の後半の部分に連なっていくのであろう。


    もうひとつの答えは、先頃、文化人類学者の友人が話したことだ。この答えもまた、インディオの女性からえたものである。数多い旅のひとつで、その友人はある山に行き当たった。山の頂にインディオの村落があった。しかし、あたりにただひとつの泉は、山のすそ野にあった。村の女たちは毎日半時間かけて山を下り、水を満たした瓶(かめ)を持ち、また一時間、山を登らねばならなかった。友人は女性に、はじめから村を山のすそ野の泉のそばに建てたほうがりこうではないかとたずねた。女性はこう答えた。「りこうだとは思いますが、楽をする誘惑に負けるのではないかとこわいのです」

    この答えは、前の話の答えよりもさらにわたしたち文明人を当惑させるかもしれない。楽をすることがなぜ誘惑なのか? 現代の洗濯機、自動車、エレベータ、飛行機、電話、ベルトコンベヤー、ロボット、コンピュータ、ひとことで言えば、わたしたちのこのモダンな世界を構成しているものはすべて、楽をするためにつくられたのではないだろうか? これらはみんな、わたしたちの生活を楽にし、めんどうな仕事を代わりにすましてくれ、もっと大切なことのために時間を与えてくれる。そうではないのか? わたしたちを解放してくれるのではないか。たしかにそうだ。ただ――なにから解放してくれるのか? ひょっとしたら、こともあろうに本質的なものから解放するのではないだろうか? そうだとすれば、それは何なのか? 一風変わった意見を述べたあのインディオ婦人のほうが、本当はわたしたちの誰よりも、もっともっと自由だという気がしてならないのは、どうしてなのだろう?

    聖書に奇妙に同じような文章を見つけた。「世界を手に入れても、魂をきずつければ、何の得だろう」(「マタイ福音書」16章26節)。ああ、魂がなんだというのだ! 魂など、とうの昔に道すがらどこかで忘れてきてしまった。未来の世界は完璧に楽で、完璧に本質を喪失した世界になるだろう。そう思いませんか? (『エンデのメモ箱』、p.131-132)


    この箇所を読んで、私は考え込んでしまった。

    たしかに文明の発達は、「楽をしたい」という欲求に根ざしている。

    しかしそれは、いけないことなのだろうか。

    それから、「もっと大切なことのために時間を与えてくれる」とはいうが、これはつまり、「余暇」ということもできるが、余暇のほとんどは、日々の疲れを取るために費やされているという現状がある。

    というところで余談だが、例えばだが、漫然とSNSや動画を見ることは、一般的にはあまりよくないことのように捉えられているが、おそらくだが、漫然とした時間を過ごすと、脳が休まるのではないか。

    ずっと忙しくしている場合、ばたっと何もせずに休むよりも、ごく軽い動きを伴った方が、休まる効率がよいようだ。

    そして、ただぼうっと動画を見ているとき、そこに映っているものをいちいち判断せずに済む。

    その一方、適度な刺激は与えられ続ける。

    そういう状態が、忙しい脳にとっては「ちょうどいい」感じのようだ。

    そのため、脳の休息になるのではないか。

    余暇の過ごし方として、動画を見たりゲームをしたりして過ごすことが多いのは、そうしたことをすることが脳を適度に休息させることになるから、というのがあるのかもしれない。

    さて、それはともかく、エンデもまたここで、「未開の」人の方が自由なように感じる、という指摘をしているが、こうした、文明の発達の方向に対して取りうる方向性を、「0°か180°か」としてだけ捉えようとすると、どうしても、文明に背を向ける方向にしか糸口が見つからないように感じられてしまう。

    しかし本当はそうではなく、おそらく「0°か90°か」なのだ。

    ある方向に対して「直交」する方向は、数学的には「虚数成分」の持つ方向として表現される。

    そのとき、文明が与えてくれた「もっと大切なことのための時間」は、単に日々の忙しさの疲れを取るためだけではない使い方が可能になるのではないか。

    そうすると、文明の発達が与えてくれた時間は、「何か本質的なものからの解放」ではなく、「何か本質的なこと」のために費やすことができるのではないか。

    –*–*–

    さて、エンデの描いたような文明人の有り様は、しかし、近年になって急速になりを潜めつつあるように思われる。

    というか、相変わらずの人と、変化しつつある人と、大きく二分されているようである。

    そして文明全体はどうしても、「相変わらず」の方向に向かっている。

    そうすると最後に書かれている、「未来の世界は完璧に楽で、完璧に本質を喪失した世界になるだろう」というのは、あたかもヒトラーの未来予言と同様の未来を示しているようである。

    ヒトラーの未来予言では、2039年時点で大半の人は「ロボット化」しているが、しかしその生活はそれなりに楽しい、ということらしい。

    ただしこうしたことは、人の未来をマクロレベルで捉えたときの描写である。

    これは実は、きわめてトリッキーな側面がある。

    そのことについて少し説明しよう。

    –*–*–

    「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」みたいなキャッチコピーがある。

    そして、これは統計学的には、概ねそうなのだろう。

    (もしかしたらこの数字はかなり違っているかもしれないので、具体的にはお調べください)

    さて、ここでの問題はいくつかある。

    まず、この「統計学的事実」は、「他ならぬこの自分が将来、がんで死ぬかどうか」に関しては、一言も言及していない、ということが一つ。

    なぜならば、この統計学的事実は、過去の日本人の死因に関して、それを統計学的にデータ処理した結果、得られた数字だからである。

    つまり、過去に関する言及である。

    だからこそ、これは未来や将来に関しては、何も言っていない、ということである。

    「過去はこうだったのだから未来もまたこうなる」とは限らない。

    (もちろん、未来は過去のようになるかもしれない)

    また、例えば「今日の降水確率は50%」というのは、今日の天気を実際に言い当てるものではない。

    そうではなく、「今日の降水確率は50%」というのは、「過去、今日と似たような気象状況の日が10日あったとすると、そのうち5日は雨が降った」という「統計学的事実」のことである。

    それからもう一つ。

    「日本人の2人に1人ががんで死ぬ」としたとき、がんで死ぬ確率は 50% あるいは 0.5 ということになるが、まさか自分の死因の半分ががんになる、などということはない。

    「死因はいつも一つ」なのである。

    この「死因はいつも一つ」ということを、自分の将来の死因に関して、がんをめぐって具体的に表現するならば、それは、「自分は、がんで死ぬか、がん以外で死ぬか、そのどちらかだ」ということになる。

    つまり「自分の死因は、がんなのか、がんではないのか、そのどちらかになるだろうし、また、そのどちらかでしかありえないだろう」ということになる。

    これは確率的に表現すると、「1か0か」ということになる。

    つまり、現段階の自分にとって、自分が将来、がんで死ぬ確率は、いわば「確率1と確率0が量子的重ね合わせの状態になっている」としか表現のしようがない、ということである。

    結局のところ、「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」というのは、この「量子的重ね合わせ」に対する、「取り得る方向性のマクロトレンド」として、いわば方向性を大きく左右する要因として作用している、ということなのかもしれない。

    つまり、川の流れのように、というか。

    そして、もう一つの問題とは、こうしたことが「完全不可視化」されている、ということである。

    「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」と言われると、何となくだが、自分もまたがんで死ぬのかもしれない、というような気がしてくるが、実際には、この言葉は全く、そんなことは言っていない。

    つまり、「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」という言葉は、「だからあなたもたぶんがんで死にます」とは言っていない。

    しかし、にも関わらず、この言葉を聞くと、なんだかそういう気がしてくる。

    これが、先に述べた言い方でいうと、「方向性を大きく左右する要因として作用している」ということである。

    そしてこれもまた、前編で述べたことと関連してくる。

    つまり、例えば、「怒りは決して正当化されない」という言葉から「怒ってはいけない」というメッセージを感じる心的仕組みと同様の無意識的な仕組みが、ここにも働いている、ということである。

    –*–*–

    さて、話を戻すと、ここで言いたいことは、たとえ未来の世界が「完璧に楽で、完璧に本質を喪失した世界になるだろう」とか、あるいはヒトラーの言うように、「大半の人はロボット化される」といっても、それは、「他ならぬこの自分」がどうなるのか、に関する言及ではない、ということである。

    それが、さっき、「こうしたことは、人の未来をマクロレベルで捉えたときの描写である」と言った意味である。

    ただし、では、「他ならぬ私の未来」はミクロレベルなのかというと、そうではない。

    「人類の未来」がマクロレベルで「自分の未来」はミクロレベル、というわけではない。

    これはむしろ逆で、マクロレベルなのは「自分の未来」の方であり、「人類の未来」の方がミクロレベルになる。

    この、「マクロ-ミクロ方向の転換」もまた、大切なことになってくるであろう。

    このことに関しては、半田広宣著、『2013:人類が神を見る日』や『2013:シリウス革命』に詳しい。

    さて、「自分のことが最もマクロ」というだけだと、これはあたかも、悪い意味でのエゴイズムと同じことのように感じられるかもしれないが、実際にはまるで異なることである。

    そうしたことは、現段階では不明でも、いずれ明らかになるであろう。

    例えば、「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」ということと、「私は将来、がんで死ぬのだろうか」ということとは、自分にとってどちらの方が「大きな」ことだろうか。

    かつて宮沢賢治はこう言った。

    「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

    世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない | 忘れ得ぬ言の葉-日本語検定

    もちろんそうである。

    しかし、世界がぜんたい幸福になるのを、手をこまねいていつまでも待ち続けるいわれはないのもまた事実である。

    そもそも、例えば宮沢賢治にしても、目の前の人が、世界がぜんたい幸福になる前に幸福になったとしても、そのことを咎めたりはしないのではないか。

    では自分が、その「目の前の人」の立場だとしたら、どうなのか。

    こうしたこともまた、「マクロ-ミクロ方向の転換」ということの、一つの側面である。

    そして、この「マクロ-ミクロ方向の転換」なくしては、魂が追いつくことはかなわない。

  • ネットでも検索すれば出てくるが、『エンデのメモ箱』(ミヒャエル・エンデ著、岩波現代文庫)に収録されている、「考えさせられる答え」には、以下のような話がある。


    もう幾年もまえの話だが、遺跡発掘のために中米の内陸へ探検行した学術チームの報告を読んだことがある。携行する荷物の運搬のために、幾人かのインディオを強力(ごうりき)として雇った。この探検全体にはこまかな日程表が組まれていた。はじめの四日間は思ったよりも先へ進めた。強力は屈強で、おとなしい男たちである。日程表は守られた。だが五日目に突然インディオは先へ進むことを拒否した。インディオたちは黙って円になり、地面に座ると、どうしても荷物をまた担(かつ)ごうとしなかった。学者たちは賃金を上げる手に出たが、それも功を奏しないとわかると、インディオたちをののしり、最後には銃で脅しさえした。インディオたちは無言で円陣を組み、座りつづけた。学者たちはどうすればよいかわからなくなり、ついにはあきらめた。日程はとっくに過ぎていた。そのとき――二日過ぎていた――突然、インディオたちはいっせいに立ち上がり、荷物をまた担ぐと、賃金の値上げも要求せず、命令もなしに、予定された道をまた歩きだした。学者たちはこの奇妙な行動がさっぱり理解できなかった。インディオたちは口をつぐみ、説明しようとしなかった。ずいぶん日にちがたってから、白人の幾人かとインディオの間に、ある種の信頼関係ができたとき、はじめて強力の一人が次のように答えた。「早く歩きすぎた」とインディオは話した。「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」

    わたしたち、つまり工業社会の“文明”人は、この“未開な”インディオから多くを、とても多くを学ばなければならないと思う。外なる社会の日程表は守るが、内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚を、わたしたちはとうの昔に抹殺(まっさつ)してしまった。個々の現代人には選択の余地がない。逃れようがないのだ。わたしたちはひとつのシステムを作り上げてしまった。ようしゃない競争と殺人的な成績一辺倒の経済制度である。一緒になってやらない者は取り残される。昨日モダンだったものが今日は時代おくれと言われる。舌を垂らしながら、わたしたちは他の者を追いかけ、駆けているが、しかしそれは狂気と化した円舞なのだ。一人が駆ける速度を高めると、みんな速く走らなければならない。それを進歩とよんでいる。

    しかし、そんなに急いでわたしたちはどこから去ろうとしているのか? わたしたちの魂からだろうか? 魂なら、わたしたちはもうずいぶん遠くに置き残してきた。だが、そのためにできた空虚さは、身体をもまた病気にする。麻薬薬物や騒音に、失ったものの代わりをもとめるのだ。クリニックや精神病院はいっぱいになる。魂を失った世界、これがわたしたちの目標だったのか? みんなで力をあわせて、この狂気の円舞を止め、ともに円陣を組んで地面に座り、黙って待つことが、本当にできないのか?


    この「考えさせられる答え」の後半には、もう一つの話が紹介されているが、その話への言及は、別の機会にする。

    さて、ここからは持論になるが、自分の癒しに取り組んでいて、現代人の心理的問題の根底にあるものは、この話の流れで言うと、「魂を置き去りにしている」という一言に集約される、と感じるようになった。

    それはどういうことか。

    例えば、現状に適応するために、人は自分がどう感じるかよりも、自分はどうすることを求められているか、という観点から、周囲のことや人々のことを捉えるように適応してきた。

    その一例として、こういう話がある。

    奇跡講座の解説の第一人者であるワプニック博士の解説で、奇跡講座のテキストの一節に関するものを引き合いに出そう。

    テキストには、「怒りは決して正当化されない」ということが登場するが、博士はこれを、「これは「怒ってはいけない」ということではありません」と解説している。

    ではどういうことか、については、本論の論旨から外れるのでここでは触れないが、まず、博士の解説を読んで、私自身もまた、「怒りは決して正当化されない」というのは「怒ってはいけない」ということだと、当たり前のように受け取っていた、ということに気付いた。

    では、なぜこのような誤読が生じるのか。

    もう一つ例を挙げる。

    こういう本がある。

    この表紙に、こう書かれている。

    「AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか」

    また、帯には「読むなよ、絶対に読むなよ」と書かれている。

    これらは何を意味しているのだろうか。

    例えば、押しボタンの横に「絶対に押すなよ」と書かれた張り紙が貼ってあったとする。

    そうすると、人はたいてい、なぜかそのボタンを押してみたくなる。

    つまり、「絶対に押すなよ」と言われると、なぜか押したくなる。

    これは、「絶対に押すなよ」という言葉は、例えばだが、「押せるものなら押してみろ」とかの、そこに書かれていない意味が無意識で同時に感じられることによっている。

    そのように、帯に書かれている「読むなよ、絶対に読むなよ」という言葉もまた、「読むなよ」と言われると、何だか手にとって読みたくなる、という効果を生み出しているのであろう。

    そしてAIは、例えばこのような、そこに書かれていない意味を読み取ることは、不可能である。

    「そこに書かれていない意味」とは、例えばこの場合でいうと、「絶対に押すなよ」という言葉から、あたかも「押せるものなら押してみろ」みたいな意味を感じ、何だか押したくなる感覚とか、「絶対に読むなよ」という言葉から、「そうまで言われるとますます気になる」みたいな、何だか読みたくなるような感覚とか、である。

    そのような意味を感じるのは、人にしかできない。

    例えばこのようにして、「怒りは決して正当化されない」と言われると、人はそれを「怒ってはいけない」という意味だと感じる、ということである。

    –*–*–

    さて、問題はここからである。

    では、なぜ、「怒りは決して正当化されない」という言葉から、「怒ってはいけない」という意味が感じられるのか。

    結論から言うと、これ、人は、例えば「相手は自分に、どう振る舞ってほしいと思っているのか」とか、「この場ではどう振る舞ったらいいのか」といったような意味を読み取ろうとする心の癖があるからではないか。

    例えばそのようにして、「怒りは決して正当化されない」という言葉は、「怒ってはいけない」という意味を含み持つものとして感じられる、ということである。

    言い換えれば、ここに「神の意図」を読み取ろうとする、というか。

    もう少しわかりやすく言うと、例えば「怒りは決して正当化されない」という言葉は、あたかも、「怒ってはいけない」という暗黙のルールや意図を遠回しに表現しているかのように感じられる、というか。

    言い換えると、相手や周囲は自分に対して、暗に何を求めているのか、を読み取ろうとしている、というか。

    この例だけでは不十分だが、実際に日常の場面で、自分がどれだけ、相手が言っていないことを聞き取っていたり、そこに書かれていないことを読み取っていたりしているか、について、ほんの少しでも気をつけてみると、驚くべきことが分かってくる。

    ここには、もしかしたらだが、日本の国語教育で「行間を読む」という教育がなされることが、思いも寄らない「弊害」を生んでいる可能性もある。

    ただし、もしかしたら、その教育方針は、人が当たり前のように「行間を読む」ようにして生きているため、そのことを学校教育でも教えないと、子どもは「一人前」になることができないから、という方針なのかもしれない。

    いずれにせよ、人は当たり前のように、相手が言っていないことを聞き、そこに書かれていないことを読んでいる。

    そしてそれは究極的には、「私はどうすればいいのか」「ここでは何が禁じられているのか・どうすべきか」といったようなことを知ろうとするためである。

    さて、この時点ですでに、普段の意識水準からはかなりかけ離れたところに意識の照明が当たっているが、ここでもう一段深く、無意識の中を照らしてみる。

    では、自分が当たり前のように、「自分はどう振る舞うべきか」を知ろうとしている、その目的は何か。

    それが、「魂を置き去りにするため」ということである。

    このことに気がつくと、平静ではいられなくなる。

    ここでは文章として言及しているだけなので、おそらく大丈夫だが、リアルな場面で実感を伴ってこのことに気がつくと、場合によっては本当に動揺する。

    これはつまり、人は日常のありとあらゆるところから、「自分自身であるな」あるいは「存在するな」という暗黙のメッセージを受け取っている、ということになるからである。

    つまり人は、日常のありとあらゆるところから、「あなたの魂を置き去りにせよ」という「指令」を絶えず受け取っている、ということである。

    念のために言うと、「あなたの魂を置き去りにせよ」という「指令」は、世界や人々が発している、というわけではない。

    そうではなく、人は世界や人々の様子から、そのような「暗黙のメッセージ」を当たり前に読み取るように条件付けられている、ということである。

    それは普段の意識状態では、完全に無意識の中で起きている。

    そのため人は、それは自分の「中」ではなく「外」で起きているように体験している。

    言い換えると、そうした「暗黙のメッセージ」は、自分がそのように受け取っているのではなく、実際に世界や人々が暗にそのようなメッセージを発している、というように体験されている。

    そしてそのメッセージを一言で言うと、例えばだが、「あなたの魂を置き去りにせよ」というメッセージである、ということである。

    このように、先の、「怒りは決して正当化されない」という言葉から、人は、「怒ってはいけない」という「暗黙のメッセージ」を当たり前のように受け取る、というところにもまた、「あなたの魂を置き去りにせよ」というメッセージがあまねく関与している、ということである。

    ただし、この場合には、「だから大いに怒りを表明しよう」ということでもない。

    これは奇跡講座読解の詳細に立ち入ることになるので、この記事(未執筆)をご参照いただきたい。

    さて、では、「絶対に押すなよ」と書かれていると、なんだか押してみたくなる、ということに関してはどうなのか。

    ここでは、「押すな」という禁止令を「あえて冒す」ことの方が、「魂を大切にする」ことのように感じられる。

    ただしこれ、キリスト教の文脈だと、典型的な「誘惑」ということになる。

    この事例にはややこしい背景がまとわりついているため、ここでは神学的な議論には深入りせず、「魂」ということと「言葉」との間には、何か密接な関連がある、ということを示唆するにとどめておく。

    –*–*–

    さて、例えばこうしたことが、現代人が当たり前のように魂を置き去りにしている、という現状の背景にある「事情」である。

    そして現代文明は、「絶えず魂を置き去りにし続ける」ことによって発展してきた。

    魂を喪失した感覚は、通常、空虚感として体験される。

    そして文中では、「麻薬薬物」や「騒音」で、その空虚感を埋め合わせようとする、ということが書かれている。

    つまり、麻薬薬物や騒音は、「魂の代用品」として機能している、ということである。

    これは依存症の本質にある。

    ただし、クリニックや精神病院は、現代ではいささか様相が異なっているようだ。

    現代では、どちらかというと、「麻薬薬物」や「騒音」に耐えられなくなった人がクリニックを訪れる、という場合の方が多いのではないか、という印象を受ける。

    さて、「魂を失った世界」という表現が見られるが、このことに関しては少し捕捉する必要があるであろう。

    まず、世界が魂を失っているわけではない。

    ただし、人類は現状、「魂を失った世界」を体験している、ということはたしかに言える。

    ここで聖書から少し引用しよう。

    これは外典である「エズラ記(ラテン語)」からである。

    (「エズラ記(ギリシャ語)」もあるが、両者は別物である)


    天使は答えて私に言った。「聞きなさい。あなたに教えよう。そして、次のことについて誤りを正そう。まさにあなたの言ったその理由から、いと高き方は一つではなく二つの世を造られたのだ。(エズラ記(ラテン語)、7:49-50)


    では、奇跡講座から引用しよう。


    知覚は選択の上に成立するが、智識はそうではない。智識にはひとりの創造主しかいないので、その法則もただ一つである。しかし、この世界にはその作り主が二人いて、彼らは世界を同じものと見てはいない。それぞれにとって世界は異なった目的をもっており、どちらにとっても、この世界は、それぞれのゴールに仕える完璧な手段であり、そのゴールのために世界が知覚される。(T-25.III.3:1-4)


    つまり、世界には二つあり、それは、「魂を失った世界」と、もう一つは「魂を思い出しつつある世界」と、である、ということである。

    言い換えると、自分が魂を失っているとき、世界は魂を失ったものとして体験され、自分が魂を思い出しつつあるとき、世界は魂を思い出しつつあるものとして体験される、ということである。

    そして覚醒前は誰もが、「魂を失った世界」を体験している。

    では、2つの世界の移行について、エズラ記ではどう書かれているのだろうか。


    海は広大な所にあって、深く限りがない。だがその入り口は狭い所に置かれていて、川のようになっている。もし誰かが、海を見たり航海したりしたいと思い、入ろうとしても、狭い所を通らなければ、どうして広い所へ行くことができようか。

    別のたとえだ。ある町が平地に造られていて、そこはあらゆる善いもので満ちている。だがその入り口は狭く、険しい所にあって、右には火が燃え盛り、左には深い淵がある。そしてその間、つまり火と水の間に、町へ至るただ一つの小道があるのだが、その幅は人一人がようやく通れるほどにすぎない。もし、この町がある人に相続分として与えられたとしても、相続人として目の前にある危険を乗り越えるのでなければ、どうしてその相続分を受け取ることができようか。

    (エズラ記(ラテン語)、7:3b-9)


    また、仏教には以下のようなたとえがある。


    ここに西に向かって百千里の道を歩いて行く者がいる。その人の前に突然河が現れる。南には火の河が燃えさかり、北には水の河が渦巻いている。川の幅は百歩ほどであるが、底も見えず南北は果てしなく水火が続いている。水火の分かれ目に一本の白い道が西岸まで通じているが、その白道はわずか4,5寸ほど(引用者註。1寸=3センチとすると15センチ弱)の細さで、しかも火焔と波浪が常に襲いかかり、対岸に渡るにはあまりにも危険であった。また、後を振り返れば多くの賊徒や悪しき猛獣たちがこちらに向かってきている。そこで次のように思った。
    〈西へ向かえば西岸に渡る白道がある。しかし対岸は遠くないとはいえ、この白道は渡るにはあまりにも幅が狭く、足を踏み外せば確実に死んでしまうだろう。東に引き返したとしても賊徒や猛獣たちが群れをなして襲いかかってくる。南北に逃げようとしたところで、やはり賊徒と猛獣が襲いかかってくるだろう〉。その人の心は恐怖でいっぱいとなったが、〈引き返しても、ここにとどまっていても、そしてこの道を前に進んで行くにしても、結局のところ死は免れそうにない。それならば、目の前に道があるのだから、この道をまっすぐに進んでいこう〉と意を決した。
     すると、東岸からは、「この道をまっすぐ進んでいきなさい。死難などはない。もしここにとどまれば必ずや死んでしまうだろう」と語りかける声がした。また西岸からも、「心を定めてただちにこちらに渡ってきなさい。お前を守護してやろう。水火の河など恐れてはならない」と語る声がした。東からは「行け」と、西からも「来い」という激励の声がしたので、疑いや不安な気持ちは消え去り、決然と白道を進んでいった。
    すると、東岸から賊徒や猛獣たちが、「戻ってきなさい、その白道は危険で悪しき道だから渡りきれはしない。我われに悪しき心などないのだ」と引きとめようとするが、そうした誘惑の声にも決して振り返ることもなく白道を進んでいくと、すぐさま西岸に渡りついて、諸難を離れることができ、西岸にいる善い友と出会って喜びや楽しみも限りがなかった。(『観経疏(かんぎょうしょ)』、「散善義」(善導著)、『禅と念仏』、平岡聡、角川新書、p.130-131)


    さらに奇跡講座ではどうだろうか。


    橋自体は、実相についての視座の移行以上のものではない。橋のこちら側では、あなたが見るものすべてがひどく歪曲されており、完全に釣り合いを失っている。卑小で取るに足らないものが重大視され、強くて力あるものが卑小なものへと減じられている。この移行には混乱の時期が伴い、実際に方向性を失ったような感覚(引用者註。「方向性を失ったような感覚」は、原文では「disorientation」であり、これは「見当識障害」あるいは「失見当識」のこと)が起こるかもしれない。しかし、それを恐れることはない。なぜなら、それが意味することは、単に、あなたの世界を保っているかに見えた歪んだ判断基準から、あなたが自分の足場をはずしてもよいと思うようになってきたということだからである。この判断基準は、特別な関係を中心に築かれている。この幻想が無ければ、この世界の中にはあなたが依然として探し求めたいような意味は何もない。
    自分が不意に引き上げられて実相の中に投げ込まれるのではないかと、恐れることはない。時間は親切なものである。実相のためにそれを使うなら、あなたが移行していく間、時間は優しくあなたに歩調を合わせてくれるだろう。急を要するのはただ、あなたの心を、この世界に固定された状態から解き放つことのみである。あなたが居場所や判断基準を失ったまま放っておかれることはない。実際の移行期に先立つこの混迷の時期は、あなたの心をこんなにもしっかりと幻想に固定するのにかかった時間に比べれば、はるかに短い時間である。今では、以前よりも遅延がつらくなるが、それは単に、それが確かに遅延であり、苦痛からの脱出は本当の可能だということが、あなたにわかるからである。次のことの中に、絶望ではなく、希望と慰めを見出しなさい。あなたはこの世界の特別な関係の中に、愛の幻想ですら長い間見ていることはできない。あなたはもはや完全には狂っていない。まもなく、自分自身を裏切ったことの罪悪感をありのままに認識することになるだろう。(T-16.VI.7-8)


    これらの記述が本質的に同じである、ということにお気づきだろうか。

    しかも、エズラ記の2つ目のたとえと観経疏の描写は、細かいところまでかなり似通っている。

    –*–*–

    さて、ところが、これらの記述はあたかも、「積極的に魂を置き去りにする」ことのように読めてしまう。

    つまり、「狭い所」や「小道」や「白道」や「橋」などをどんどん先に進むように書かれているからである。

    しかしこれこそがまさに、「魂が追いつく」ことに関する具体的な記述となっている。

    そのため、どうしても混乱する。

    これはどういうことか。

    このことに関しては、ここでどんどん先に進む自分の方が「魂」だから、ということである。

    つまり、肉体としての自分、あるいは「他者から見たときの自分」でもいいのだが、それは、実はすでに目的地にいるのだが、魂の方がすっかり置き去りにされている。

    そのため、「ここ」において、魂としての自分が、肉体の現在位置に急速に追いつく、というようなことである。

    世界が魂を失ったように見える理由は、まず、その喪失感が本当に意味しているのは、肉体の現在位置と魂の位置との間にある「ギャップ」の「埋めがたさ」である。

    その「ギャップの埋めがたさ」を「魂目線」で捉えると、世界が魂を失ったように見える、ということである。

    (ただしこれは、「では、「魂目線」ではなく「肉体目線」で捉えればいいということか」ということではない。そのことに関しては別の記事とする)