さて、「現代人は魂を置き去りにしている」というだけでは、なんのことやらさっぱりわからない。
そこで、一つ、具体例を示そうと思う。
先の、「考えさせられる話」からの引用の中に登場する学者たち。
彼らは、インディオたちが先へ進むことを拒否したとき、どうしただろうか。
学者たちは、賃金を上げることでインディオたちを動かそうとしたが、うまくいかなかった。
次に罵り始めた。
挙げ句の果ては、銃で脅したりした。
そして、これらの行動を取るような心的状態が、魂を置き去りにした人の取る行動の一例である。
このように、魂を置き去りにしているとき、人は、現状が自分の思い通りにならないと、直接的・間接的に状況や相手を操作し、コントロールしてでも、現状を自分の思い通りにしようとする。
さて、これらの中には、「インディオたちと話をする」ということが含まれていない、ということにお気づきだろうか。
つまり、学者たちは、いろいろな手段を使って、インディオたちを自分たちの思い通りにしようとしているが、そこには、「インディオたちと話をする」ということは、全く含まれていない、ということである。
インディオたちと話をすることは望むべくもなかったとしても、しかし彼らは学者である。
彼ら学者たちは、遺跡発掘のために中米の内陸まで探検をしに来たにもかかわらず、「インディオたちが突然、先へ進むことを拒否した」という「遺跡」を「発掘」する気にはならなかったのだろうか。
こうしたことはもう、知りようがないことなので、これ以上このことを深堀りする気はないが。
もちろん、「ずいぶん日にちがたってから」、インディオたちと信頼関係を結ぶことができた白人たちは、あのとき、インディオたちがなぜ、先へ進むことを拒否したのかについて知ることができたが、それによると、「魂が追いつくまで待たなければならなかった」から、ということだったのであり、それを知ることができたため、一連のエピソードはエンデの知るところとなった、のではあるが。
さて、ここで学者たちが、インディオたちがどうしても動こうとしないことで諦めたことは、とてもよかったのかもしれない。
なぜなら、それでも彼らが諦めなかったとしたら、手段は次第に強硬なものとなり、白人たちのあまりの横暴ぶりにたまりかねて、最終的にはインディオたちの「徹底抗戦」が始まったかもしれない。
そうすると、白人の学者たちの間で、「未開人は好戦的で野蛮だ」という「定型句」が強化されたかもしれない。
彼らはそこまでのことはしなかった、ということからは、文明人たちは、以前よりは「文明化」されてきたのかもしれない、ということは、言えるかと思う。
いくら自分たちが、「内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚」を「とうの昔に抹殺」したからといって、そうした感覚を温存している人たちの感覚までも抹殺しようとするのでは、それは到底、文明人とは言えないのではないか。
それは「野蛮人」としか言いようがなくなってしまうのではないか。
では、外的に文明化されればされるほど、人の心は野蛮になっていく、ということなのか。
おそらくこうしたところから、「考えさせられる話」の後半の部分に連なっていくのであろう。
もうひとつの答えは、先頃、文化人類学者の友人が話したことだ。この答えもまた、インディオの女性からえたものである。数多い旅のひとつで、その友人はある山に行き当たった。山の頂にインディオの村落があった。しかし、あたりにただひとつの泉は、山のすそ野にあった。村の女たちは毎日半時間かけて山を下り、水を満たした瓶(かめ)を持ち、また一時間、山を登らねばならなかった。友人は女性に、はじめから村を山のすそ野の泉のそばに建てたほうがりこうではないかとたずねた。女性はこう答えた。「りこうだとは思いますが、楽をする誘惑に負けるのではないかとこわいのです」
この答えは、前の話の答えよりもさらにわたしたち文明人を当惑させるかもしれない。楽をすることがなぜ誘惑なのか? 現代の洗濯機、自動車、エレベータ、飛行機、電話、ベルトコンベヤー、ロボット、コンピュータ、ひとことで言えば、わたしたちのこのモダンな世界を構成しているものはすべて、楽をするためにつくられたのではないだろうか? これらはみんな、わたしたちの生活を楽にし、めんどうな仕事を代わりにすましてくれ、もっと大切なことのために時間を与えてくれる。そうではないのか? わたしたちを解放してくれるのではないか。たしかにそうだ。ただ――なにから解放してくれるのか? ひょっとしたら、こともあろうに本質的なものから解放するのではないだろうか? そうだとすれば、それは何なのか? 一風変わった意見を述べたあのインディオ婦人のほうが、本当はわたしたちの誰よりも、もっともっと自由だという気がしてならないのは、どうしてなのだろう?
聖書に奇妙に同じような文章を見つけた。「世界を手に入れても、魂をきずつければ、何の得だろう」(「マタイ福音書」16章26節)。ああ、魂がなんだというのだ! 魂など、とうの昔に道すがらどこかで忘れてきてしまった。未来の世界は完璧に楽で、完璧に本質を喪失した世界になるだろう。そう思いませんか? (『エンデのメモ箱』、p.131-132)
この箇所を読んで、私は考え込んでしまった。
たしかに文明の発達は、「楽をしたい」という欲求に根ざしている。
しかしそれは、いけないことなのだろうか。
それから、「もっと大切なことのために時間を与えてくれる」とはいうが、これはつまり、「余暇」ということもできるが、余暇のほとんどは、日々の疲れを取るために費やされているという現状がある。
というところで余談だが、例えばだが、漫然とSNSや動画を見ることは、一般的にはあまりよくないことのように捉えられているが、おそらくだが、漫然とした時間を過ごすと、脳が休まるのではないか。
ずっと忙しくしている場合、ばたっと何もせずに休むよりも、ごく軽い動きを伴った方が、休まる効率がよいようだ。
そして、ただぼうっと動画を見ているとき、そこに映っているものをいちいち判断せずに済む。
その一方、適度な刺激は与えられ続ける。
そういう状態が、忙しい脳にとっては「ちょうどいい」感じのようだ。
そのため、脳の休息になるのではないか。
余暇の過ごし方として、動画を見たりゲームをしたりして過ごすことが多いのは、そうしたことをすることが脳を適度に休息させることになるから、というのがあるのかもしれない。
さて、それはともかく、エンデもまたここで、「未開の」人の方が自由なように感じる、という指摘をしているが、こうした、文明の発達の方向に対して取りうる方向性を、「0°か180°か」としてだけ捉えようとすると、どうしても、文明に背を向ける方向にしか糸口が見つからないように感じられてしまう。
しかし本当はそうではなく、おそらく「0°か90°か」なのだ。
ある方向に対して「直交」する方向は、数学的には「虚数成分」の持つ方向として表現される。
そのとき、文明が与えてくれた「もっと大切なことのための時間」は、単に日々の忙しさの疲れを取るためだけではない使い方が可能になるのではないか。
そうすると、文明の発達が与えてくれた時間は、「何か本質的なものからの解放」ではなく、「何か本質的なこと」のために費やすことができるのではないか。
–*–*–
さて、エンデの描いたような文明人の有り様は、しかし、近年になって急速になりを潜めつつあるように思われる。
というか、相変わらずの人と、変化しつつある人と、大きく二分されているようである。
そして文明全体はどうしても、「相変わらず」の方向に向かっている。
そうすると最後に書かれている、「未来の世界は完璧に楽で、完璧に本質を喪失した世界になるだろう」というのは、あたかもヒトラーの未来予言と同様の未来を示しているようである。
ヒトラーの未来予言では、2039年時点で大半の人は「ロボット化」しているが、しかしその生活はそれなりに楽しい、ということらしい。
ただしこうしたことは、人の未来をマクロレベルで捉えたときの描写である。
これは実は、きわめてトリッキーな側面がある。
そのことについて少し説明しよう。
–*–*–
「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」みたいなキャッチコピーがある。
そして、これは統計学的には、概ねそうなのだろう。
(もしかしたらこの数字はかなり違っているかもしれないので、具体的にはお調べください)
さて、ここでの問題はいくつかある。
まず、この「統計学的事実」は、「他ならぬこの自分が将来、がんで死ぬかどうか」に関しては、一言も言及していない、ということが一つ。
なぜならば、この統計学的事実は、過去の日本人の死因に関して、それを統計学的にデータ処理した結果、得られた数字だからである。
つまり、過去に関する言及である。
だからこそ、これは未来や将来に関しては、何も言っていない、ということである。
「過去はこうだったのだから未来もまたこうなる」とは限らない。
(もちろん、未来は過去のようになるかもしれない)
また、例えば「今日の降水確率は50%」というのは、今日の天気を実際に言い当てるものではない。
そうではなく、「今日の降水確率は50%」というのは、「過去、今日と似たような気象状況の日が10日あったとすると、そのうち5日は雨が降った」という「統計学的事実」のことである。
それからもう一つ。
「日本人の2人に1人ががんで死ぬ」としたとき、がんで死ぬ確率は 50% あるいは 0.5 ということになるが、まさか自分の死因の半分ががんになる、などということはない。
「死因はいつも一つ」なのである。
この「死因はいつも一つ」ということを、自分の将来の死因に関して、がんをめぐって具体的に表現するならば、それは、「自分は、がんで死ぬか、がん以外で死ぬか、そのどちらかだ」ということになる。
つまり「自分の死因は、がんなのか、がんではないのか、そのどちらかになるだろうし、また、そのどちらかでしかありえないだろう」ということになる。
これは確率的に表現すると、「1か0か」ということになる。
つまり、現段階の自分にとって、自分が将来、がんで死ぬ確率は、いわば「確率1と確率0が量子的重ね合わせの状態になっている」としか表現のしようがない、ということである。
結局のところ、「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」というのは、この「量子的重ね合わせ」に対する、「取り得る方向性のマクロトレンド」として、いわば方向性を大きく左右する要因として作用している、ということなのかもしれない。
つまり、川の流れのように、というか。
そして、もう一つの問題とは、こうしたことが「完全不可視化」されている、ということである。
「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」と言われると、何となくだが、自分もまたがんで死ぬのかもしれない、というような気がしてくるが、実際には、この言葉は全く、そんなことは言っていない。
つまり、「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」という言葉は、「だからあなたもたぶんがんで死にます」とは言っていない。
しかし、にも関わらず、この言葉を聞くと、なんだかそういう気がしてくる。
これが、先に述べた言い方でいうと、「方向性を大きく左右する要因として作用している」ということである。
そしてこれもまた、前編で述べたことと関連してくる。
つまり、例えば、「怒りは決して正当化されない」という言葉から「怒ってはいけない」というメッセージを感じる心的仕組みと同様の無意識的な仕組みが、ここにも働いている、ということである。
–*–*–
さて、話を戻すと、ここで言いたいことは、たとえ未来の世界が「完璧に楽で、完璧に本質を喪失した世界になるだろう」とか、あるいはヒトラーの言うように、「大半の人はロボット化される」といっても、それは、「他ならぬこの自分」がどうなるのか、に関する言及ではない、ということである。
それが、さっき、「こうしたことは、人の未来をマクロレベルで捉えたときの描写である」と言った意味である。
ただし、では、「他ならぬ私の未来」はミクロレベルなのかというと、そうではない。
「人類の未来」がマクロレベルで「自分の未来」はミクロレベル、というわけではない。
これはむしろ逆で、マクロレベルなのは「自分の未来」の方であり、「人類の未来」の方がミクロレベルになる。
この、「マクロ-ミクロ方向の転換」もまた、大切なことになってくるであろう。
このことに関しては、半田広宣著、『2013:人類が神を見る日』や『2013:シリウス革命』に詳しい。
さて、「自分のことが最もマクロ」というだけだと、これはあたかも、悪い意味でのエゴイズムと同じことのように感じられるかもしれないが、実際にはまるで異なることである。
そうしたことは、現段階では不明でも、いずれ明らかになるであろう。
例えば、「今や日本人の2人に1人ががんで死ぬ時代です」ということと、「私は将来、がんで死ぬのだろうか」ということとは、自分にとってどちらの方が「大きな」ことだろうか。
かつて宮沢賢治はこう言った。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない | 忘れ得ぬ言の葉-日本語検定
もちろんそうである。
しかし、世界がぜんたい幸福になるのを、手をこまねいていつまでも待ち続けるいわれはないのもまた事実である。
そもそも、例えば宮沢賢治にしても、目の前の人が、世界がぜんたい幸福になる前に幸福になったとしても、そのことを咎めたりはしないのではないか。
では自分が、その「目の前の人」の立場だとしたら、どうなのか。
こうしたこともまた、「マクロ-ミクロ方向の転換」ということの、一つの側面である。
そして、この「マクロ-ミクロ方向の転換」なくしては、魂が追いつくことはかなわない。